これは2024年6月6日に発信したアシュタンガヨガ信州メルマガ1号目です。1号目を受け取り損ねた!という方へ向けてここに加筆修正して転載させていただきます。
この度はアシュタンガヨガ信州のメールマガジンにご登録いただきありがとうございます。
本当に、とても嬉しいです。
何がそんなに嬉しいかというと、いくらでも情報発信手段があるこのご時世に、あえてメルマガという時代遅れなチョイスをしたこの僕に付き合っていただけたことが嬉しいです。
世代的にその黎明期からメルマガを受け取り続けているということもあり、なんだかいまだにメルマガが好きなんですよね。人から手紙を貰うってやっぱりいつの時代も嬉しいものです。なので、このメルマガも少しでもみなさんに喜んでいただけるようやってみます。
目標は月1、2回。ムーンデーに発行する予定です。
内容は主にヨガ、インド関連、今後の予定のお知らせなどができたらな、と思ってます。
さて、これは記念すべき第1回目のメルマガなので、大変僭越ではありますが僕、鳥井ナオキのことなどを少し語らせてもらいたいと思います。
方々にプロフィールなどを書き散らしてはいるので、自分のこれまでの経歴や思いはある程度表現してきたつもりです。でも、このあたりでもう一度しっかりと自分で自分の気持ちを整理して、みなさんにきちんとお伝えしておきたい、というのがこの初回のメインテーマ。最初に断っておきますがかなりの長文になるかと思います。何卒よろしくお願いいたします。
まず、お伝えしたいのは、僕がなぜヨガを伝えているのか、僕にとってヨガとは何なのか、ということです。
子供の頃から天邪鬼で物事を素直に受け止めず、何事も斜め下あたりから眺めるのが常だった僕にとって世界は謎と欺瞞に満ちたものでした。
「た」と過去形で書きはしたものの、今でもその思いはさほど変わっておらず、近頃は2歳の娘と2人して、世界の謎と不思議を発見、観察するのが日課となっています。最近の研究テーマは「なんでダンゴムシは丸くなるのにゾウリムシは丸くならないのか」です。もちろん身体構造の話とかではありません笑。
どうやったって進化論が理にかなっているとは思えないのはきっと僕だけじゃないはずで、自分が単細胞生物から気の遠くなるような時を経て進化を重ねた末の「今」に生きているとはとても思えません。かといってインド亜大陸に伝わる聖典が示すように、世界は神の現れであり、すべてはいっときの幻、と鵜呑みにすることも、そちらの勉強に時間を割くことも今はできません(でもこちらの方が進化論よりは自分的には優勢だし、ヴェーダンタにはなによりもロマンを感じます)。
そんなわけで、あえてネットスラングを使わせていただくと、40代半ばの中年に差し掛かってなお、「世界とは何か」「人生とは何か」というような「中二病」的疑問が頭から離れない僕にとって、ヨガはなんというか、その解決の糸口を示してくれているように思えています。
なんで?と言われると「練習をしてみてそう感じたから」という、自分としては確固たる思いではあるけれど人に納得してもらうにはいささか説得力にかける説明しかできません(本当はもうちょっとできるけど言葉にはしづらい)。でも、ある程度練習を重ねた人はきっとわかってくれると信じてます。
こんな疑問は誰しも生まれてから思いあたったことがあるはずだけど、自分も含めて科学者や哲学者としてその謎に正面からぶつかる、という選択をできなかった(しなかった)人たちは、気づけば自然とそんな疑問は忘れて生きているんだな、と思っています。
みんながみんな自分の人生全てをかけて科学や哲学に取り組むなんてもちろんできません(別にそれが高等で優れた行為である、と決めつけることもできませんし)。でも、ヨガは自分のこれまでの人生を守り育みつつも、そういった人生における壮大なテーマに向き合うことができる類まれなツールだな、と感じています。
立派な学位がなくっても、経済的な余裕がなくっても、体1つとマットが1枚あれば大丈夫。ブッダが瞑想の末にたどり着いた境地は選ばれし人だけのものではないはずです。
他人に物事を上手に説明する必要なんて全然ないし、自分が経験して感じられることがこの世界の全てです。まずはその認識にたどり着くことが、心を軽くして生きていくための第一歩。アーサナの練習はその第一歩を踏み出すための最善の選択の1つです。
さらにはアーサナを練習することで健康的なライフスタイルも手に入るのだから言うことなし。
人がヨガをやらない方が良い理由は1つもないよなーと思ってて、だからヨガを伝えることを生涯の仕事にしようと決めました。
与えられる情報に振り回されたり、たやすく回答を外に求めることなく、時間がかかってもマットの上で自分の体と呼吸を通して学んだことを信じて実生活でそれを応用し実践して生きていく。愚直に感じられるかもしれないけれど、でもやっぱりそんなやり方が自分には向いていると感じてて、だからこんな気持ちに共感してくれる人たちと生きていけたらいいな、と思ってます。
僕が折に触れていつも思うのは
「この一生は本当にあっという間に終わるのだな」
ということです。
多分2歳になる前に、少しの時間1人で家で留守番をさせられて泣き喚いたことをまだ鮮明に覚えています。
あれから40年以上の月日が流れたとはとても実感できません。
瞬きをするほどのあっというまの時間。
「あと、もう一回瞬きをしたらこの人生はきっと終わってしまうのだ」
という思いがしばしば頭によぎります。
そんな儚い幻のような一生をどんな風に生きていきたいか。
思い描く夢の暮らしを手にいれて残りの数十年を消費できればそれでいいのか、どうなのか。
残りの人生をどう生きたいか?と聞かれて、「できる限りたくさん犯罪を犯して人を苦しめて、自分の快楽だけを追い求めたい」なんて答える人はまずいないはず。
もしくは、「なるべく嫌な思いをして苦しみながら、ハードモードな毎日に身を置きたい」という人もごく稀でしょう。
人が思い描く理想はせいぜい数パターンしかないと思ってて、大きくわけると「世界や周囲の人間との調和の道を選びつつ丁寧に穏やかに生きていくパターン」か、「がむしゃらに自分の目標を達成していくパターン」の2つだけ。
ヨガ的にはもちろん前者に分がありますが、でもそのどちらを選んだとしてもやっぱり瞬きをする間にこの人生はおわっていくのだと思います。
どう生きたって結末は結局一緒。正しいことも正しくないことも物差しが違うだけで絶対なんてないわけで。でも、結局結末が一緒だからどう生きたっていいのかというと、もちろんそんなことはないわけで。その結末までの過程こそに意味があるわけで。
来世のことにまで思い馳せるかどうかも、今世で解脱を狙うかも自分次第。そこを視野に入れるとまた色々と変わってくると思うけど
どんな道を歩むにしろ、起こることすべての責任を自分が負う、という覚悟さえあれば、誰もあなたの選択を非難することはできないはずです。
しばしば耳にする話ではありますが、臨終間際の人に
「人生で後悔していることは何か?」
という質問をして帰ってくる回答で一番多いのは
「本音で生きられなかったこと」
だそうです。
一度しかない人生で、人のことばかり気にしてやりたいこともやれずにいるのはきっと悔しいと思います。
誰だって本心は本音で生きたいに決まってます。
でも、自分の本音が周囲と軋轢を生んでしまったり、世間に糾弾されるようなことだとしたら、その思いは頑なにしまい込んで生涯を終えるのがよいのか
もしくは精神的な学びを深めてその本音が変容するのを待つのか
もしくは向かい風にあおられながらシンプルに本音のまま生きていくのか。
ヨガの大切な教え「アヒンサ」の意味は
「世界の苦しみを減らすこと」。
それはとても美しい気づきです。
ですが、人を傷つけないようにするために、自分自身が苦しみながら生きなければならないとしたらそれは正しい選択なのか。
いろんな考えがあるけれど、どれが正しいのか、何があなたの人生にとってベストなのかは実際のところ誰にもわかりません。
それに何より、「自分の本音」が本当のところはわからない、という人もきっと多いはず。
でも、繰り返しになりますが、あなたがどう生きたとしても、誰もあなた以外にあなたの人生の責任をとってはくれません。
アシュタンガヨガは人を強くしてくれます。
その強さとは自分の人生で何が起ころうと、それをしっかり受け止めることができるようになる強さです。
それは、あなたの大切な人たちを守るための強さであり
それは、あなたの大切な思いを、他人の思惑から守り抜く強さです。
そして、強くあるということは、相手に対しても自分に対しても「優しくある」ということにきっと違いないと思っています。
アシュタンガヨガのマイソールクラスでは、毎日の練習で人が成長して変わっていく様子を見ることができます。
たとえ名前すら知らなくても、隣で懸命に頑張っている人の姿を見て励まされたり、毎日休まずスタジオへ通う姿に感銘を受けて襟を正したりすることがあるかもしれません。
直接お互い手を差し伸べることがなくっても、応援されている気持ちを感じたり、見守られているような気持ちになることもあるかと思います。
いつも来ている人がしばらく来ないとどうしたのかと気になるし。
それは本当に、家族のようなもの、誤解を恐れずに言わせていただくと、毎日を共にする家族以上のきずなだと感じます。
みんなで1つの家族のようなものだと思うと、ちょっとやそっと相手に気に食わないことがあっても大丈夫。
自然と相手のことを労って、思いやる気持ちになるはずです。
それは、相手がどう生きていこうとも、それを暖かく見届けようという思い。
ちょっと気恥ずかしいので口にはしないけど、それは愛というものに他ならないな、と思います。
たまに遅刻したり、寝癖がついてたりしつつも(すみません)アシュタンガヨガのマイソールクラスがそんな愛に溢れた空間になるといいな、と思いながら僕は毎日スタジオに立っています。
みなさんのこれからの成長を、見届けさせていただけたら幸いです。
できたら、僕のこれからも見守っていただけたら幸いです。
願わくば、みんなで毎日楽しく練習しながら、一緒に年を重ねていけたらいいな、と思っています。
以上、ここまで長々お付き合いいただき本当にありがとうございます。
たまの機会ということで大いに語らせていただきましたが、でも僕が言いたいことをどうにか一言でまとめるといつもどおり
「なるべく毎日みんなで練習しましょう!」
ということです笑。どうしたってやってることはアシュタンガヨガなので、これだけ語らせてもらいながらも言葉の限界をひしひしと感じてます。
よく知られた言葉ではありますが、アシュタンガヨガの練習は99%の実践と1%の理論です。頭でっかちにならないように、自分の経験と思いを大切に、これからも練習を重ねていきましょう。
では、またスタジオでお待ちしています!
鳥井ナオキ